さて皆さん、今までのエピソードはいかがでしたでしょうか。一連の出来事の整理のために、以下に簡単な年表を示しておきます。

1914年7月28日第一次世界大戦勃発
1914年8月23日日本がドイツへ宣戦布告
1914年10月6日全国にさきがけて、久留米に最初のドイツ兵俘虜収容所が開設される
1914年11月16日久留米の第十八師団が、ドイツが守る青島要塞を陥落させる
1915年6月9日熊本の俘虜収容所を統合するなどして、久留米俘虜収容所が現在の久留米大学医療センターの位置に移設、1,300人規模になる
1917年4月9日徳島県に板東俘虜収容所開設
1918年6月1日板東俘虜収容所で、男声のみの合唱、不完全な編成ながら、日本で最初にベートーベンの交響曲第九番が、ヘルマン・ハンゼン指揮により演奏される
1918年7月9日久留米俘虜収容所でもカール・フォークト指揮により、交響曲第九番の1~3楽章が演奏される
1918年11月11日第一次世界大戦終結
1919年12月3日久留米高等女学校で2~3楽章のみであったが、一般市民が初めて交響曲第九番を聴く
1919年12月5日板東と同様、男声のみの合唱、不完全な編成ながら久留米で初めて交響曲第九番の全曲が演奏される

第一次世界大戦時のドイツ兵俘虜収容所と言えば、圧倒的に徳島県の「板東俘虜収容所」が有名で、しかも"第九を日本で初演した"という史実は間違いありません。また、このエピソードに範をとって"バルトの楽園(がくえん)"という映画も製作されています。ところがこの映画では、第九の演奏は近隣住民の前で行われたように脚色してあるものですから、それを事実と思いこんでいる人も少なからずいるようです。

このホームページは、そんな誤解を少しでも解くために作成いたしました。日本で第九が広まっていった原点となったのは、"限定された演奏"だったとはいえ、やはり一般市民の前で公開された久留米高等女学校の演奏会からと判断するのが普通でしょう?

ベートーベン研究の本家である ベートーヴェン・ハウスでもそのように紹介されています(現在は削除されているので、インターネット・アーカイブにて)。このホームページ、立派な日本語ですが、ドイツのホームページです。このページの一番下の方に、"久留米女学校"として記述してあります。

最近、板東俘虜収容所があった徳島県鳴門市では、日本どころかアジア初の「第九」の演奏であるとして、市を挙げて「なると第九」ブランド化プロジェクトを推進しているそうです。収容所跡を整備して観光開発をするとか、芸術活動を支援するとかいうプロジェクトだったら私のような部外者が文句を言う筋合いは全くないのですが、このプロジェクト、何と「幼稚園」から、第九を原語で歌わせるという教育プログラムを含んでいたりもします。まるで"思想教育"ですね。このプロジェクトが成功したら、日本では、「最初に民間人が第九を聴いたのは久留米市!」と言っても誰も信じる人はいなくなるかもしれませんね。

そんな危機感から、私のささやかな行動の第一歩がこのホームページです。