さて、私は元々クラシック音楽が好きでドイツという国も好きだった(最近はそうでもないが(^^; )ことから、最初は軽~い気持で「交響曲第九番」の日本初演の様子を調べていたら、"久留米高等女学校"という名前が出てきて腰を抜かしたのは、2011年の秋だったと思います。私は、久留米高等女学校とは狭い通りを隔てたところにある高校に通っていた(笑)にも拘わらず、その高校の誰一人としてそんなことは知らず、全く話も聞いたことはなかったのでした。当時の音楽の○村先生は、音楽大学を出られた方であったようですが、その先生からでさえもそのような話を聞いたことはなかったので、恐らく先生もご存知なかったのでしょう。つまり久留米市には、このような音楽史上重大なエピソードがあったにも拘らず、それはなぜか歴史の片隅に埋もれてしまって、人々の記憶から忘れ去られてしまっていたのでした。

しかし、このような話を知ってしまうと最初に思うのは、何かその歴史的事実の記念物がどこかに残っていないか・・・ということです。私が高校に通っていた頃には久留米高等女学校の校舎はまだ残っていたので、「あの校舎のどれかで演奏会が行われたのか、そんなことも知らずにそれは大変残念なことをした!!」・・・と思ったのは大変な早とちりで、演奏会が行われたあとの1931年(昭和6年)に久留米高等女学校は場所を移転しているので、どのみちもう何も残ってはいなかったのです。

元々の久留米高等女学校の位置を当時の地図上に示すと次のようになりますが、その地は現在は「石橋迎賓館」となっています。そして、福岡県中学明善校の北に「有馬家別邸」と書かれた敷地に移転したのでした。

大正五年(1916年)発行の久留米市街図より作成。

北の方角をきちんと合わせているので、現在の地図と比較すると興味深い。
鉄道は、後の国鉄になる前の「九州鉄道」なので、筑後川を渡る鉄橋の位置が現在と微妙に異なる。

それにしても、久留米城(篠山城)の周りに何とたくさんの水堀が残っていることか!

第二章で示した絵葉書の写真は、この移転・新校舎の落成を記念して発行されたものと思います。そして窓の形や配列から、この絵葉書に写った校舎こそが演奏会が行われた講堂であると、私は推定しています。

現在、その絵葉書に写っている校舎の外観と、第一章や第四章に掲載している、演奏会を撮影した写真から見える室内の状況を照合して分析をしているところです。私の推定が間違いないと確認出来れば、また結果を公表したいと思います。

尚、参考に同じ時代の明善校の写真も掲載しておきます。

当時の絵葉書より。(この絵葉書は、このホームページの作者の所有物だったが、第二章の"久留米高等女学校"の絵葉書と共に、久留米市の文化財保護課へ寄贈された。)

堂々とした当時の校舎。中央の正門は現在の明善高等学校にも受け継がれていることは言うまでもない。

しかも1911年(明治44年)の久留米・鳥栖周辺で行われた陸軍特別大演習の際には、この門に「大本営」の看板が掲げられ、明治天皇の行在所として使用されたのだ。