かつて第一次世界大戦の時には、日本にとってドイツは敵国でした。ヨーロッパでこの未曾有の戦争が起きたとき、ドイツは中国の青島を租借して要塞を築いていたため、中国での権益が欲しかった日本は、日英同盟を盾にドイツへ宣戦布告して攻略部隊を派遣しました。
攻略部隊は、久留米の第十八師団を中心とした部隊が派遣され、ほどなく要塞は陥落しました。この時、4,700名程のドイツ人俘虜を捕えましたが、彼らを日本へ運んだのち、最初の俘虜収容所が久留米に開設されました。

"俘虜(ふりょ)"とは、現在で言う「捕虜」のことで当時の言い方ですが、ここでは俘虜という言い方で統一いたします。また便宜上、"ドイツ兵俘虜"というような言い方を用いますが、これらの俘虜の中には"同盟国オーストリア"の将兵も含まれており、当時のオーストリアは正確には「オーストリア・ハンガリー帝国」と呼ばれる多民族国家であったことから、これらの俘虜の中には、スラブ系やラテン系など、ゲルマン系とは違う人々もいくらか混じっておりました。

当時の軍隊というものは、将校と下士官・兵卒という階級の差による処遇の違いが大きかったものですから、当初は、将校については梅林寺や香霞園(久留米にあった料亭)に、下士官・兵卒については大谷派久留米教務所(当時は日吉町)や高良台の軍の兵舎の一部を収容所としてこれらの軍人を収容していました。

しかし、1915年6月9日、久留米衛戍病院(えいじゅ病院:軍の病院のこと)跡に宿舎を整備して熊本の収容所と統合し、その他の収容所の俘虜の一部も移動させています。この場所は、現在の陸上自衛隊久留米駐屯地の横(久留米大学医療センターの駐車場の一部)にありました。
当時その場所は、"三井郡國分村"であって久留米市の市域ではありませんでしたが、この収容所は「久留米俘虜収容所」と呼ばれました。

俘虜収容所は、全国的には、西日本から関東地方にかけて最終的に16の収容所が整備されましたが、そのうち「久留米」、徳島県の「板東」、千葉県の「習志野」の各収容所は収容人員が千人かそれを超える程度の規模で、久留米は一番多い時で1,300人を超える人数を収容した日本最大の収容所でした。

久留米俘虜収容所は全国で最大であったにも拘らず、敷地面積が極めて狭隘で、また、所長が眞崎甚三郎中佐であったときに俘虜の将校をなぐって大問題となり、収容所側と俘虜達の関係は日本で最悪だったとも言われています。この殴打事件については、ドイツ人将校が反抗的な態度をとったためと考えられ、日本人の側からすれば眞崎中佐の行為はある程度納得できる部分もありますが、前述しましたように、当時の軍隊の将校というものは権威のある存在と考えられていましたので、俘虜とはいえそれを殴ったことは国際的な問題となったようです。

収容所中央の演舞場に整列する俘虜たち。この写真からも、収容所が狭隘であったことが見てとれる。

2014年10月26日に久留米市が開催した、歴史探訪バスツアー「ドイツ兵捕虜ゆかりの地めぐり」で配布されたパンフレット「第一次世界大戦から100年 ドイツ兵久留米俘虜収容所」より引用

また一方、徳島県の板東俘虜収容所は、所長の松江豊寿中佐が俘虜に対して人道的な扱いをして「ドイツ人にとって最良の俘虜収容所だった」などとも言われますが、松江中佐は後に若松市の市長になるなどすぐれた見識を持った人だったのは間違いないとしても、少し美化し過ぎであるとの研究もあります。但し、一つだけ明確に言えるのは、1,300人規模でありながら極めて狭隘だった久留米に対して、1,000人規模の板東は敷地がほぼ二倍であって十分に広く、日常の生活は久留米より遥かに快適であったであろうということです。